2010年 05月 24日
▲
by ishou_keitai
| 2010-05-24 19:33
| 日常
紹介
カテゴリ
以前の記事
2018年 04月 2016年 09月 2016年 06月 2016年 05月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 07月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 検索
画像一覧
記事ランキング
その他のジャンル
|
2010年 05月 23日
M1のヤクボです。
色々な音楽を聴いていて、ふと水琴窟を思い出しました。 実際に聴いたり、テレビで聴いたことがある人もいるかもしれませんが、水琴窟というのは柄杓ですくい上げた水を石の上に流すと、石の中に浸透していった水が地中に埋まったビンを逆さまにしたようなものの中に水滴となって落ち、とても綺麗な音を作り出すものです。 ![]() @丹波水琴窟 このような見かけです。 水の落ちる場所や、水滴の大きさ、前の水滴によってできた波、などなど色々な見えない要素が集まって、1つの音を作り出しています。 人の手によってきっかけを与えて、あとは自然が作り出す「音」という領域は現代の音楽にはあまり見られない領域ではないでしょうか。 実際の音はここから聞くことができます。 ちなみに、この音はよ~く聴かないと分からないような音ではなく、かなり鮮明に地面から聞こえます。 管共鳴やフラッターエコーなどの効果でこの不思議な音が作られているということですが、今から3,400年も昔の江戸時代にこのようなものを作り出した人たちの知恵には本当に驚きです。 前回のゼミで音や音楽についての話題がでたので、参考までに。 ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-23 20:43
| 日常
2010年 05月 21日
昨日のゼミで出た公園歩道自動生成の話と、複雑系のアリ塚は同じ話だと気がついた。アリ塚のアリを人間に置き換えて、歩道を自動生成する。個人の意思とは無関係に知らぬ間に共同作業をして何かが生成されていくというのはとても興味深い。これは「公共」という概念とも関係しているのかもしれない。
公園を歩いていて感じる「自分はデザイナーの意図どおりに歩かされている」という違和感。一方「デザイン」されていない昔からある小さな公園の自然な趣。そこでは押しつけがましい「綺麗な形」など無く、自分がその中に溶け込むことができる。例えばお茶の水の錦華公園。10代の頃、お茶美を抜け出してはよく行った。大好きな公園の一つ。 もちろん全て自然に任せれば良いという話ではないが、良い形を生成するためにデザイナーは何を成すべきか、あるいは成さないべきか、ということはもっと考えて良いし、デザイナー個人の力量に依存するのとは異なるアプローチがあって良いのではないか。別の言い方をすれば、デザイナーには「如何に“自分”を出さないか」という、より深い思想や思考力が求められる。そこも含めてデザイナーの力量である。これはアートもまた同じ。 Tauchi ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-21 08:27
| ゼミ
2010年 05月 20日
どうも,M1の矢久保です.
前回のゼミで複雑系に関する話をしましたが,その後実験を行ってみました. 下の写真は複雑系の形(日本語変かも)を実際に作ってみようと試してみた結果です. ルールは単純で ・1つのネオジウムを机の上に投げる. ・最初に落としたネオジウムの位置を目指して30cm程上から1つずつネオジウムを落とす. の2つです. いずれの形も,最初にネオジウムを落としたところを中心に山形になるという特徴の他,内部が密な構造にならず,手で同じような形をつくろうとしたときに比べ,スカスカになるという結果になりました. 当然のことながら,3回の実験中同じ形は1つもできませんでした. ![]() ![]() ![]() 不思議な構造物は出来る過程を見ると,更に不思議な印象が強まりました. シロアリの巣が出来るまでの過程などを探して見てみるとよいと思います. (自分は発見できませんでした...) 参考までに色々なアリ塚 別な話題で,現在,意匠形態のHPを作成しています. 現段階ではフルテキストで内容的な部分に関してもサンプル文章が載っているのみですが,今後画像やコンテンツを充実させていこうと考えています. 時間をみつけては改良を加えていく予定です. 意匠形態学研究室(サーバは仮なので個人のサーバを使用しています.完成次第,オフィシャルなサーバに移植できれば...) ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-20 01:22
| 日常
2010年 05月 16日
M1の湯浅です
5/13、ゼミの後に、早稲田大学で開かれた「デバイスアートシンポジウム」に参加。興味深い発言がとても多かったので、以下にメモ的に残しておきます。僕のフィルターがかかってるので、原文そのままではないです。 ちなみに、ほとんど思想の話に終始して、いつものゼミのような雰囲気でした。 __________________ まず、デバイスアートとは何か? 応用芸術であり、デザインの一部とも言える 電気掃除機のような便利さはないが、私たちの思考を広げ、 驚きをもたらしてくれる。(ナンセンスマシーンのようなものが多い) __ 工学系の人の作品と、デバイスアート、アウトプットだけ見ればどちらもナンセンスマシーンだが、違いはあるのか?どちらもアートと呼んでいいのか? (全アートに通用するのか分からないのでここではデバイスアートに限って言えば)アートとなるには作者の芸術史の理解を前提とした「思想」が必要である。それがないものはアートではない。 発明家と研究者の関係に似ている。 発明家は、パッと思いついたものを作る。 研究者には、過去の研究の文脈の理解が必要。 __ テクノロジーの進化がアーティストを追いつめている。 現代ではさらに創造的になるしかない、プロフェッショナルでいるには常に前衛的でなければならない、世界で誰も見たことがないものを。 __ まずつくれ。 __ ものを作る人には二通りしかいない。自分の「赤ん坊」をつくるか、「うんこ」をだすか。赤ん坊はかわいくて仕方がないもの。うんこは出さなきゃいけない衝動(義務?)にかられて出すもの。 __ 「醜いこと」と、「美しくないこと」は違う、醜いものの方がおもしろく、作者の顔が見たくなる、美しいことがある。 __ クレイジーさ はじめからやりたいことが決まってたらたいしたものは出来ない。 オープンエンド、まだ誰も答えの分からないコミュニケーションを。 答えの分かっていることなどコミュニケーションではない。 アートをどう見るかは、それを見た人が付加するコンテクストによる。 Art is open communication. 方向、展開、内容は変わっていく。人それぞれが何かを読み取る。 __________________ 特に「醜いこと」と、「美しくないこと」は違うという考え方には深く衝撃を受けた。今の世の中、とりあえずキレイで、端正に、白くてなんだか洗練されているっぽい感じの物が溢れている(学生の作品にも多い)。高得点なプロダクト、グラフィック。嫌な気分じゃない。でも美しいってそういうことじゃなくて、なんかもっと違うものだよな、なんてモヤモヤ思っていたところを上手く表現してくれた。 醜いと美しいは、一直線上にはない。 余談ですが、早稲田のキャンパスは散らかってるところはちゃんと散らかっててよかった、掲示板がいたるところにあり(それも4mくらいの高さ!)ポスターの上にポスターが貼られ、破られて四隅の画鋲とその周辺の千切れた紙だけのものも、破られていないものと同じくらい大量に残っていた。反米軍基地のデモの立て看板が至る所に掲げられ、それ以外にもシンポジウムやイベントの告知看板は筆で文字が書かれているものがほとんどだった。そこには学生の活動のエネルギーが感じられた。おもしろそうと思ってしまった。 キレイで居心地のいい場所では、キレイで居心地のいいものしか生まれないと感じた。得体の知れないよくわからないパワーを秘めていて、何かおこりそうな場所では、きっと得体の知れないよくわからない何かが起こるのだと思う。 この研究室、まだ開始したばっかりだが、そんな雰囲気を目指したいと思ったなう。 ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-16 05:31
| イベント
2010年 05月 16日
こんばんは、4年の二川です。
昨日の焼き物完成は感動でした。どうなることやらと思ったけど、完成してみたら我が子はかわいい。自分の器が、自分が食べた物と同じ物を吸収してるって、ちょっとやっかいだけど趣がありますね。 そして爆睡してすみませんでした。 さてその前日にもゼミがありました。 個人的に気になったトピックを挙げてみます。 『素材感と重さの関係』 明らかに重そうに見えるのに持ってみたら軽かったり、同じ物に見えてじつは重さにはっきり差があったり、といったものがあったらおもしろいかもしれない。例えば、レゴブロックに重さ違いのパーツがあったら遊び方広がりそうですね、という話でした。 モノが予想を裏切る、ことによって、前々回のゼミで出た『2度目の発見』(モノを見たときの驚きだけでなく、仕組みなどを知ったときにこれはいい!と思えるような体験)にもつながってくるのでは。などと思ったり。 『保存しよう、という考えはマイナス(思考)。守りにはいっている感じ』 伝統技術、伝統工芸の抱える問題について。守らないと消えていってしまうかもしれないが、守るというところには抵抗がある。 いやいや非常に奥が深い問題です。 今までは、良い物は自然と残るのだから、と考えていました。でもそれは市場原理が大前提にある考え方で、伝統工芸に関してはあてはまらないものも多い。いいものなのに結果として淘汰された形になってしまう。でも「守ろう!」という不自然な動きがでちゃうと…あくまでも個人的にですが、モノそのものの価値が下がっちゃうような気がするのです。 ううん難しい。 「昔のものだから良い、というのは違う。現代に残すには意味を読み替えなくては」 「残っているという事実だけで人が幸せになる(アラスカの写真についてのはなし)」 「技術を残すことが大事なのでは」 などの意見もでました。 『自分とものとの呼吸がはまったときの贅沢』 ある人工物にすぎないのに、「愛機」とか「愛車」とか言われるのはどうしてか。 使いやすさの側面のみから見ても、便利だから、も、不便だから、も理由になりえるわけで、これまたよくわからない話になってきちゃいますね。 でも、自分の大事な物に呼吸が感じられたら、そのことは、人生を楽しく美しくする。だから呼吸をするように感じられるモノが、世の中から消えないで欲しいし、多くの人が、モノにそういう魅力を感じられるひとであってほしいと思うのです。 しかしモノの呼吸、って、デザインの力で生み出せるのかな、と思ったりなんかもします。 ほかにも、「見立て」の文化や、カオス理論の話などで盛り上がりました。 カオス理論については、私自身まだよく分かってないのですが、「蝶の羽ばたきひとつで地球の裏側の天候が変わる」といった話はおもしろいですよね。なんだか、ロマンがある。 ロマンといえば、ゼミの中でちょこっとだけでた話。 ![]() 「花カマキリって、カマキリから進化したんじゃなくてもともと花だったって考える方がしっくりくるよね?」 真実はどうであれ、なんだか、良いです。胸がすく感じ。 ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-16 03:05
| ゼミ
2010年 05月 15日
粘土をこねて器を作り、乾燥、素焼き、本焼きという行程を経て、いよいよ制作物の検証をするために各自自分の器を持って居酒屋へ向かった。
検証項目は以下の通り 1.水漏れは無いか 2.持ちやすいか 3.飲みやすいか 4.容量は適当か 5.情動を刺激するか 結果はごく一部の制作物を除き概ね良好であった。特に5番の「情動を刺激するか」という項目に関しては、大いに刺激するという結果が得られた。 さらに特筆すべき発見が2つあった。 1.窯出しして最初にアルコールを注いだ器はその後いくら洗っても匂いが消えず、ずっと残っている 2.窯出し後も陶器表面のガラス質に「貫入」といわれるヒビがずっと入り続け、24時間以上経った今でも「ピキン」という音がひっきりなしに聞こえる 1番は、本来「陶器」というものは多孔質で吸水性が非常に良いということを示しており、このことから一度染みこんだ液体は陶器の中に残留することが分かる。陶器を洗剤で洗ったり、漂白剤につけ込んだりすることが何を意味するのか、そしてそのような液体を川に流すことで何が起きるのか想像する必要がある。そもそも本当に洗剤で洗う必要があるのか疑問でもある。また、一般に売られている器は陶器ではなく陶器もどきなのだということもよく分かった。まるで別物なのだ。 2番の貫入に関しては、陶器本体よりも表面のガラスのほうが収縮率が高いということを意味しており、考えてみれば当然そうあってしかるべきものである。もし仮に表面のガラスよりも本体の陶器のほうがたくさん縮むのだとしたら、ガラスが陶器の表面積に収まりきれず、貫入が入る代わりにガラスが割れて弾け飛んで来るであろう。また、窯出し後も貫入が入り続けているということは、陶器表面のガラスにまだ歪みが残っていることを意味し、言ってみれば「陶器が、産まれ出たこの世界にまだ馴染んでいない」のだとも言える。この世界に馴染むまで手元に置いて見守ってあげたいものである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-15 22:25
| イベント
2010年 05月 10日
土日で素焼きした器を今日の13時に窯から出して釉をかけ、再び窯入れをした。13時に始めたが、窯入れに手こずり終わったのは21時。窯の中に立体パズルのように積んでいく。ちょうど良い大きさの棚板の数が足りないため、かなり無謀な積み方をしているが、それほど重たい物はないので大丈夫だろう。終わってから5人でお食事。とても幸せを感じる時間だった。明日の朝に火を入れ、窯出しは14日(金)の夕方6時。そのまま器を持って居酒屋へ直行する予定。自分で作った器で食べたり飲んだりする気分はどうだろう。 Tauchi
![]() ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-10 23:19
| イベント
2010年 05月 10日
5月6日(木)のゼミについて記録しておこうと思って何度か書きかけたが、どうにも書けない。最初に僕のほうから問題提起をして、それに対して様々な意見が出たが、その結論を出さないまま次々に話題が移っていく。それを文章にまとめようと試みたが、やってみると実際に起きたこととかけ離れた創作になってしまうのでそれは諦めた。意匠形態学研究室第5回目のゼミは、回り道ばかりで、ノイズが多く、とりとめが無く、しかし、何か重大な意味が潜んでいるようなやりとりが続いた。
まず、そもそもこの日のゼミは以下の2つのことを話し合う場として設定していた。 1.意匠形態学研究室の方向性について 2.研究室プロジェクトについて 結論から言うと2番に関しては時間がとれず全く話し合われていない、1番に関しても2時間半を費やしたが、生煮え状態のまま時間切れで終わった。時間は限られているので、この日の議論を行うにあたり、僕は研究室の学生や久保教授にいくつかのメールを送り、あらかじめ議論の方向付けを行った。以下は実際に送ったメールの抜粋。 --------------------(To:研究室所属学生/From:Tauchi) ……各自考えをまとめてきてください。 研究室の方向性について学生と教員が一緒に話し合うというのはおかしな気がするかもしれませんが、「意匠形態学研究室」というのは何でも入る入れ物。世界中探してみてもそういう名前の研究室はありません。自分たちはこれから何をすべきか、中身は皆で考えて作っていくのだと考えてみてください。…… -------------------- --------------------(To:久保教授/From:Tauchi) …研究室の方向性を学生と話しあうというのも妙な話ですが、そこには、ある考えがあります。それは、例えば「千葉大学デザイン学科の一研究室として、他の研究室との違いを考える」というような内向きな方向ではなく、今、現代において、何が必要とされているのか、「意匠形態学」という研究を行うことは、自分たちは意識していなくとも時代の要請ではないのか? そもそもあなた方は「意匠形態学」という研究室をどうして選んだのか? というような話から、広い視野に立って世界を相手に考えていきたいと思っています。……考えているのは「科学と神と人間の関係」… -------------------- 「科学と神と人間の関係」なんて、なんだかすごいことを書いているが、これは前の晩にふと思いついて、ツイッターに書き込んだ言葉。自分が書いた言葉から自分の考えが発展していき、さらに、返信をいただいた方の言葉によって考えが補強されていった(返信をくれた方、どなたか存じませんがありがとうございます)。 以下はゼミの中で出てきて印象に残った言葉。 ・「科学的」なプロセスに限界を感じる(矢久保) ・科学も芸術も真理を求めるという点は同じ(久保) ・「科学的」見方と、全体をそのまま捉えようとする姿勢が大事(久保) ・デザインをするのにデザインから入りたくない(二川) ・「意匠形態」のメンバーは、周囲から「意匠形態っぽい」と思われている(豊田) ・デザイナーとはアートとデザインの両方ができる人(湯浅) 二川さんの言った「デザインをするのにデザインから入りたくない」という言葉は面白いし、まったくその通りだと思う。哲学者の森有正が全く同じ事を言っているので参考のために以下に貼り付けておく(クリックで拡大)。 ![]() 次回のゼミは明日の朝9:30から個別の発表の後、意匠形態学研究室の「ミッションステートメント」を考える。 Tauchi ▲
by ishou_keitai
| 2010-05-10 22:52
| ゼミ
|
ファン申請 |
||